岡本(金沢大学)です。
繁桝さんから頂いたRes.より:
>構成概念がまるごとそっくりの形で測定できない心理学では、構成概念の意義は、
>(1)モデルの簡約化と同時にわかりやすさ.(2)自分の心に照らして心当たりがあり、
>因果性の物語が描けることとしたわけですが、当り前のことなんでしょうか.
上の繁桝さんのお考えに、私は納得できます。
しかし、私以外の心理学研究者のなかには、特に(2)の点に関して異論の
ある方もおられることと思います。
ベイジアンとしての繁桝さんが、意図的に(このfprでの議論を刺激する
ために)このような言い回しを選ばれたのかなと思いました。
とにかく、コメントを付けてしまった責任がありますので、もう少し書き
加えます。
科学的判断が客観的なものでなければならないというのはある種の常識でしょう。
それと同時に、ベイジアンの主張するように、判断の主体としての研究者の何らか
の価値判断も前提になっていると思います。
しかし、後者の主観的要素についての考え方にはデリケートなものがあります。
主観的判断を認めるということをすすめていくと、研究者の内観を主たる基礎と
する理論構成の立場、あるいは内観をそのまま文章化したものを理論と称すること
になる可能性もあります。これでは行動主義に何も学ばなかったということになり
ます。
私は、以前(2〜3年前と思います)、基礎心理学会での鹿取先生の御発表を拝聴
させて頂いたときの興奮を思い出します。
御発表のintroductionのとき、このような問題(具体的な内容は忘れました)を、
内観によらずに実験的にどのように扱われるのかと思いました。
先生の御発表が進むにつれて、その実験心理学的アプローチの内容に、心理学の
初心者のように興奮しました。
実験心理学の醍醐味は、内観あるいは主観を客観的方法としての実験で検証する
ことにあると思ったりもしました。
また、私のいまの研究テーマの1つであるpsychophysicsでは、感覚という構成
概念の必要性/妥当性が問題にされることもあります。主観的あるいは日常的
体験としての感覚は常識的には明らかなものですが、科学的構成概念としての
感覚が問題にされるのです。
科学は客観的でなければならない。すなわち、宗教であってはならない。
しかし、科学は主観的(相対的)判断者である人間との関係において存在
している。
このように考えられるとしたとき、この矛盾のバランスには危険なものがあります。
岡本安晴
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